寺田恵子、「これだ!」セクシーでカッコいい「SHOW―YA」誕生の秘話語る 80歳でも対バンライブ約束…インタビュー_aohi1111
1980年代に一世を風びした女性5人組ロックバンド「SHOW―YA」が、れだセクシーでカッコいいSHOWYAる8でもンライブインタビューaohi11118月に結成40周年イヤーに突入した。誕生対バ東京・日比谷野外大音楽堂で、の秘自らプロデュースする女性ミュージシャン限定ロックフェスティバル「NAONのYAON」を開催するなど、約束精力的寺田0歳に活動し続ける。脱退と再加入を経験したボーカル・寺田恵子(61)が、恵こ話語パイオニアとして切り開いてきた女性ロックバンドの歴史を振り返った。れだセクシーでカッコいいSHOWYAる8でもンライブインタビュー(増田 寛)
黒ずくめの服、誕生対バステージ上の激しいヘッドバンギングを全力でやり続ける過激さからは一転、の秘後輩たちへの温かなまなざしは、約束まさに“姐(あね)さん”だ。寺田0歳女性若手アーティストの相談などにも真剣に向き合い、恵こ話語「NAON―」にオファーを出して活躍の機会を提供する。れだセクシーでカッコいいSHOWYAる8でもンライブインタビュー彼女たちが背中を追いたくなるのは当然だろう。
「『NAON―』のきっかけは、aohi1111THE ALFEEの野外ライブに対抗したかったから。当時から負けず嫌いで、誰にもできないフェスをやりたかった。今は、若手の女性ミュージシャンやスタッフの夢を持つ場。結婚や産休を経た女性アーティストがまた戻ってくる場所でもありたい」
すでに還暦を超えたが、若々しさは変わらない。寺田は「喉が弱いし、体も強いほうじゃない。でも、気持ちだけはすごいストロング。若い子と一緒の時も誰よりも楽しんでいる。元気すぎて“妖怪”って言われたりもするけど…」と笑い飛ばした。
音楽愛の原点は家族の影響だった。幼少期からテレビやラジオで音楽を浴びるように聴いていた。中でもロックシンガーのカルメン・マキ(73)に衝撃を受けた。「姉の彼氏がバンドをやっていて、姉が聴いていたCDを聴き、唯一無二な存在になりたいと小学生から思っていた」
高校の文化祭で、カルメン・マキのコピーバンドを組むことになり、ロックバンドの世界に足を踏み入れた。練習のスタジオを貸し出していた楽器店の店長にスカウトされてSHOW―YAの前身となるバンドに加入。ただ、当時は「女のバンドには絶対に入りたくなかった」と振り返る。
「当時、年上の女の人が嫌いだった。よくいじめられていて。女性だけのバンドは信用できないし、絶対にいじめられると思った」。ただ、その心配は杞憂(きゆう)だった。「みんな本当に純粋に音楽が好き。とにかく練習熱心。ファッションや男の話はしたことがない」と懐かしむ。
ひたむきに音楽に向き合っていた寺田は、バンド名を現在の「SHOW―YA」に改め、1982年にヤマハ主催のバンドコンテストのレディース部門で最優秀グランプリバンドを受賞。ただ、なかなかデビューにこぎ着けることができなかった。
「出産と子育てをしながら仕事をするような環境がない時代。なかなかレコード会社とか事務所が決まらず、コンテスト優勝後もライブハウスで活動していた」。デビューできない日々に焦燥感を募らせ、抜け駆けを考えたこともあったという。「私はとにかく歌で世の中に出たかった。なかなかデビューができないことに気がついて、『スター誕生!』に1人で応募した。第1次審査落ちだったけど、『女性バンドで、ロックで売れてやる!』って心に誓った」
その後、メンバー変更と下積みを経て、「SHOW―YA」は85年に「素敵にダンシング(Coke Is It)」でデビュー。ただ、当時は売り出し方が分からずに迷走。今では考えられないポップな衣装に身を包み、世に出た。
「メンバーはもっとロックしたいと思ってたかな。私としては『テレビで歌が歌える』『SHOW―YAをみんなに知ってもらえる』と思ってうれしかった」
デビュー後は音楽番組などに露出する機会が増えたが、曲は売れず。「私が目を引くことができない(キャラクターだ)から人気が出ないと思った」。髪形や衣装など、4年以上も悩み続けた。
殻を破ったきっかけは、米ロサンゼルスでレコーディング中だった24歳の時。現地スタッフに悩みを相談したところ「アメリカでは30歳を過ぎてからがロックアーティストのスタート。お前はあと6年間も勉強できる」と言われ一念発起。浴室で自分の下着姿を見て「これだ!」と思い立ち、下着に鋲(びょう)を施した。セクシーで格好いいSHOW―YA誕生の瞬間だった。
楽曲でも89年に代表曲となる「限界LOVERS」が大ヒット。「ここまでしてダメだったら、もう終わりぐらいの覚悟もあった。下着姿でテレビに出てもいいと吹っ切れた。『この曲は絶対売れない』と周りから言われてた中、『昭和シェル石油』のCMソングで正月も毎日のように流れた。音楽も新鮮で、時代と私たちのマインドが一致した」
同じ女性バンド「プリンセス プリンセス」の影響も大きかった。「最初にかわいいプリプリが売れて、硬派なSHOW―YAが出てきた感じ。その対立で取り上げてもらう機会も多かった。ファン同士は仲が悪かったけど、お互いのメンバーは仲が良かった」
人気絶頂を迎えた中、91年に寺田がバンドを脱退。激しいヘッドバンギングで首の骨が削れ、喉にはポリープが複数できた。「自分の体や、メンバーが海外進出を望んでることを考えて、自分の役目は終わったと思った。メンバーと感覚がズレていた」
脱退後は音楽を完全にやめ、一般企業に就職して結婚も考えていたという。ただ、「歌手は自分の天職」と92年にはソロデビュー。メンバーからは「裏切り者扱いされていた」こともあり、SHOW―YAに戻ることはないと思っていたが、95年の阪神・淡路大震災の被災地を見て考えが変わった。
「チャリティーライブでお金を集めて届けたいと思った。お金を集めるには、やっぱり看板ってすごく大事だったから、SHOW―YAとしてチャリティーをやりたいと思ってメンバーに声をかけ始めた」
2005年に再結成するまではメンバーに頭を下げる日々だった。「すごく断られたけど、あきらめられなかった。最後は私の泣き落とし。大泣きしたら『やらないと言ってないでしょ!』って。体力や年齢的にも再結成した後を考えたら、05年がリミットだった」
困難を乗り越え、バンドは40周年に突入したが、見据えるのはバンドの“還暦”だ。「20年後に対バンライブをやろうと誘われていて。私たちはみんな80歳。生きているのかな。周りは『恵子さんは死なないから』って。夢があって楽しい」
相手はまだ明かせないとしたが、女性バンドだという。「女性バンドは華やかで、しなやかで、かわいい。(魅力は)そこかな」。今日もSHOW―YAは女性にこだわり、未知の世界を開拓し続ける。
◆SHOW―YA(ショーヤ)メンバーはボーカル・寺田恵子、リーダーのキーボード・中村美紀(64)、ドラムス・角田mittan美喜(60)、ベース・仙波さとみ(61)、ギター・五十嵐sun―go美貴(61)。1985年メジャーデビュー。91年2月に寺田が離脱。ステファニー・ボージャスをボーカルとして再スタートも、98年9月にバンド活動を終了。2005年にデビュー時のオリジナルメンバーで再結成。
続きを読む(责任编辑:エンターテインメント)
- ·石川遼 33歳初戦バーディー発進も表情晴れず 暫定首位は10アンダーの平田憲聖
- ·レッドソックス吉田、左腕先発試合で先発に抜擢 まさかの理由とは?
- ·「いやもう素晴らしかった」阿部監督が絶賛した巨人・吉川の打撃 結果につながった直接指導
- ·中日一筋13年 田島慎二投手が今季限りで引退 16年開幕から31戦連続0封
- ·佳境のJリーグをカンテレが総特集 関西4チームに前園真聖氏「盛り上がりが他の地域とは違う」
- ·【阪神】秋山拓巳、プロ生活のターニングポイントは藤川球児氏からの言葉「その一言で変われた」
- ·渡辺雄太が”Bリーグデビュー” 新天地でオープン戦出場、SR渋谷の日本代表と初対決は「変な気持ちになった」
- ·大谷翔平、1打席目3球三振で10打席連続無安打 3試合ぶりの本塁打&盗塁で「50―50」へ前進なるか
- ·90年イタリアW杯得点王が59歳で死去 「メチャクチャ優しすぎる瞳」磐田で同僚だった中山雅史氏も追悼
- ·【池添謙一のKen to 1】デビュー戦のドンパッショーネは好感触
- ·「紅しょうが」熊元プロレス、コロナ禍でラブホテルデートを提案も返ってきた衝撃の一言明かす
- ·A.B.C―Z、オリジナルストーリーに先輩・後輩の楽曲を落とし込んで披露…4人体制初のミュージカル「ABC座」
- ·A.B.C―Z、オリジナルストーリーに先輩・後輩の楽曲を落とし込んで披露…4人体制初のミュージカル「ABC座」
- ·「THE TIME,」安住紳一郎アナが驚嘆した人気フリーアナの「食習慣」…「あんこは缶缶のまま行くのが一番おいしい」
- ·日テレ系「every.」キャスター・桐谷美玲の衣装ショットに「清潔感の塊」「エリマキトカゲみたい」の声
- ·ドジャース負ければマジック消滅…2位パドレスが3連勝、直接対決3戦残し3ゲーム差に
- ·奇跡の新入幕優勝から3場所 けがから回復した尊富士はまるで鎧をまとったロボコップ…元大関・琴風の目
- ·マイナビ仙台、佐々木美和が先制弾決めるも逆転許し開幕戦黒星
- ·初代タイガーマスク、「虎ハンター」小林邦昭さんと最後の別れを果たしていた
- ·大谷翔平が適時二塁打で12打席ぶり安打、チーム11イニングぶり得点 マジック消滅危機も「50―50」へ前進期待